昭和四十五年九月六日
x御理解第八十八節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにす するばかりではない、心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪 い顔を人に見せぬようにして、家を治めよという事である。」
私はこの八十八節を、頂きますたんびに、思うんですけれども、愈、繁昌に繁昌を重ねる、いわゆる、おかげにおかげの花が咲く程しの、おかげを頂く為に、こゝのところの御神意、とでも申しましょうか、この御理解の底にあるものと云うか、それを会得し、体得させてもろうて、生活の上に行じていったら、間違いなしに、おかげにおかげの花が咲くような、愈 おかげが受けられるなと云う事を、実感致します。
八十八節というのは、八に八が重なる、広がりに広がると云う、そうゆう風に感ずるのです、まあ神ながらだなあと思うのです、例えばこの御理解の組み方から いったような事からでも、そうゆう事をこゝの中から感じます。
ですから、これは勿論、嫁入り前の娘さんに下さった、御理解でございましょうねえ、鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするとゆう事の為、だけじゃないぞと、いわゆる、自分の心の中に、辛い悲しい思いをする時に、鏡を立ててみよと、こうゆうのですから、ですからこれを、嫁入りをされる娘さん達、とゆう為だけでなくて、これを、私共信者一般の者が、頂かせてもらうとゆう事になると、鏡とゆう事の内容が、大変変ってくる訳ですねえ、
俗に申します、子供は親の鏡だと、いったような事を申しますが事実、そうであります、ですから子供だけじゃ有りません、自分の周辺に起きてくる全ての事が、自分の心の姿が、そのように表れてくるのです。
云うならば、自然のそうした働きそのものが、私の鏡なのです。そうゆう純信仰的な意味に於いての、鏡なのです、と頂くべきだと思うですねえ、又、そう頂かなければ、いわゆる今日、私が云う八十八節、おかげにおかげの花が咲く程しの、おかげを頂くとゆう事が、及びもつかない事になります。
私共は矢張り、辛い思いをする、悲しい思いをする事もある、様々、腹の立つ事もある、ですから、そうゆう時にです、鏡を見る気にならなければいけない。
その悲しい事が、辛い事その事が、私の心の中にあるのである、そう実感が出来るようになる事が、信心だと思います。
どうして、こうゆう事が起ったじゃろうかとか、どうして、例えば子供が云う事を聞かんとか、自分の周辺に次から次と、良くない事が起ってくる、とゆうのは、それそのものがです、あなたの鏡だと、頂くとゆうところに、私は、純信心の有難いところがあると思う。 昨夜の御理解に、合理的とゆう御理解を頂いた、人間の考えで合理的と云うのは、これはもう、実に浅はかな智恵から生まれた合理であって、本当は神の理、云うなら天地の理、とでも申しましょうか、神の理に合った信心を、これは信心の場合ですよ、合理的な信心とゆう事が、云えると思うのです。
又の御教に、信心は容易いものじゃが、氏子から難しゅうする、と仰せられますような、御教がありますが、今日は私、信心とは容易いものじゃがと、ゆうのを、信心とは、難しいものじゃが氏子から、簡単な信心にしてしまう、底の無い浅い信心にしてしまう、とゆう風に頂いてもらいたい。
そうして、信心が難しいものだとゆう、その難しいものであるからこそ、言わば楽しいのであり、何の稽古ごとさせて頂くでも、簡単な事で、すぐ会得出来るような事は、実は楽しい事も、面白い事もない。
例えば、三味線なんか三筋の糸で、良い音色が出ろうとゆうのですから、やはり難しい、やはり三味線三年と云われる位に難しい。ですから、難しいからこそ、楽しいのです、だからこそ、言わば、素晴らしいのです、金光様の御信心を、教祖様は、容易いものじゃがと、仰ってますがね、体得してしもうたら、容易いものだとゆう事です。
例えば そんなら私共でも、若い時三味線をひきましたから、私が知っておるかぎりの、例えば曲目でありますならば、いっちょん難しいと思わん、どげん酔うとったっちゃ、やっぱ自分でひきよる難しい事はないです、どげん酔うとったっちゃ、大丈夫です、それは体得しとるからなんです。
ちょいと 三味線ちゃ難しかと云うて、私が覚えとるとを、難しい風にしては、ひとつもひかん、それこそ、糸の方も見らなければひと 手の方も見らない、とゆうようにですねえ、容易いものになってくる、云うなら、自転車でもそうですよ、たった二つ車で、あれは乗りきらん者が見たら、本当に難しいように見えるのです。
難しかろうと思うです、ところが実際乗り習うてみると、いっちょん難しいものでないでしょうが。
そうゆう意味合いに於いてです、私は、信心はまず難しいものとして、取り組まなければいけないと思うのです、そしてそこにひとつの、体得が出来たところから、信心は容易いものじゃがと、ゆう事になってくるのです。
ですから今日は、この八十八節を、そうゆう意味合いに於いてです、聞いて頂きたいと思う。
心に辛い悲しい思いをする時、鏡を立て、人に悪い顔を見られんようにと、こう云うてあります、いわゆる自分の心の姿が、鏡に映じておる訳です。
ですから、そこに例えば、辛い悲しいとゆう問題がこゝに、起ったとするなら、そうゆう風に自然の鏡に、映っておるのですから、だから、心からそれを見て、相済みませんとか、有難いとか、お礼の云えれるような心の状態になる時に、鏡に映じてくるものも、やはり、そのような風に変ってくる。
人に悪い顔を見せぬように、家を治めよとゆう事、家が治まるとゆう事、まずそんなら、それを念ずる者の、例えばこゝの教会で云うならば、その中心である私の心が、まず治らんかぎり、例えば治る事はないと思います。
まず自分自身の心が治らずして、治ろう筈がありません、そこでそんなら、治めるのにはです、どうゆう治め方があるかと、 様々に有ります。
「云うて聞かせて、して見せて、褒めてやらねば誰もせぬぞえ」なる程、実に合理的なこれは、治め方ですねえ、普通一般で云う、これは、人間が云う合理的なんです。
そうゆういき方の人があるとするなら、確かに家は治まるです、自分自身が行うておるのですもの、それでいて、云うて聞かせる、それでいて、例えば褒めてやると、いったような状態、
云うて聞かせただけじゃねえごと、云いよるかとゆうごたる風ですけれども、云うて聞かせる前に、自分がして 見せとかにゃいけん、かくするものだぞと、そして云うて聞かせる、しかもその上に褒めてやるような、気持がなからなければ、実は治まらんぞと、まあこれは合理的な、普通一般で云う、合理的ないき方ですねえ。
けれども今日、私は皆さんに、八十八節とゆうところから、ヒントを得てです、八に八が又重なる程しの繁昌は、人間の小さい考え云うなら人間の、そうゆう合理的ないき方位では、おかげにおかげの花が咲く程しの、おかげにはなってこないです、只、繁昌とゆう事でしょう。
繁昌に繁昌を、重ねていく程しのおかげにはね、私が昨夜から申しております、本当な意味に於いての、合理的なものでなからなければ、いけないとゆう事。
それは、いわゆる神の理に適うとゆう事なんです、神の理に合うとゆう事です、それを信心で云う合理的、それを私は、時々、超合理的だとゆう事を申します。
その超合理的な、いき方になるからこそ、超がつくようなおかげになってくる、いわゆる八に八が重なる程しの、おかげになってくるのですよ。
信心の世界とゆうものは、そうゆう霊妙不可思議な働きを、持つものなんです。 人間が例えば、人間の云う浅い考え、いわゆる智恵をもって、合理的な信心をする、合理的な生活をする、それは、理に合わないいき方より、いゝかもしれませんねえ、乱れた生活よりいゝかもしれません、それは、いわゆる、云うて聞かせて、してみせて、褒めてやらねばと ゆうような意味に於いてですねえ、
主人が一生懸命やらっしゃる、やらっしゃった後に、子供に云うて聞かせる、しかも人使いが上手、仲々褒められんところでも褒めてから、云うなら、おだてゝ使えとゆう意味です。
福岡の高橋さんがある時、やはり、沢山な人を使うておられますからねえ、やっぱり、いろんな問題があるのです、人間関係の上にも、そうゆうお届けのあった時に「金で使わず、物で使わず、口で使わず、心で使え」とゆう御理解を、頂かれた事がある。
少し給料を余計にやれば、やっぱり働きましょう、それは物でもやれば、やっぱり気嫌がいゝでしょう、働きようもありましょう、云うなら、口では褒めて、そして給料も高うやって、それは、いわゆる人使いが上手とゆうのです。
けれども、それはどこまでも、人が使っておるのですから、それはそれだけの事です、けれどもその、心で使えとゆう事は、もう既に神様の働きが、そこにあるのです、神様が使いまわして下さるのです。 今日は親父がおらんから、油売ろうとゆう事がないです、神様が使いなさる、それにはね、云うた方がましのごとあるけれども、金を余計にやって、使うた方がよかろうごとあるけれども、なる程それもいゝ事でしょう。
けれども、その上にです、いわゆる心で使えとゆう事は、そんなら、自分自身の心をね、改めていけとゆう事、店の者達の上に、不行き届きな事があったとしたら、自分自身の心の中に、神様の前にこのような、不行き届きがあっておると知る訳です。
店の者の、不行き届きの姿とゆうものが、こうゆう形に表れて、鏡に映っておるのであるから、自分の心を鏡に向けて、見たような思いです、改まっていく、 そうゆう改まった心で願っていく、そこにね、人が使わず、物、金で使わず、心で使えとゆう事に、なってくるのです。 この治めるとゆう字は、シ辺にム口と書いてあります、云うて治めよとか、金で治めよとかは買いちゃなか、シと云うのは、自然とゆう事でもありましょう、又、シとゆう事は、お恵みとゆう事でもありましょう。
おかげを受けて、云わんで済むおかげを頂けとゆう事、ム口とゆう事は、云わんで済むおかげ、只、云わんで済むと云うたって、自分が辛抱しとる、頑張っとるとゆうだけじゃいかん、自分が改まって、おかげを受けて、そして無口になれとゆうのである、もうこれで治めたが、一番間違いない。
これは人間が治めるのじゃない、そこに神様の働きとゆうものがあっての事、ですからねこゝのところは、例えば云うた方が楽な、容易い、云わずに辛抱して、自分が改まっていくとゆう事は、難しい、私は今日は、そこのところを云いよる、難しい、なる程信心は難しいなと、自分の周辺の全てが、自分の鏡だとゆう事を、聞かして頂いたんですから、それを例えば、行の上に表していくとゆう事がです、そうゆう事になってくる。
神の理に合うとゆう事ね。 昨夜、壮年会の信心研修会でした、いつも私、参加させてもらうのですけれども、夕べも、秋永先生が見えとりませんでしたから、私が司会をさせてもろうたる
そして、まあ一人一人の信心を、聞かせてもらった。その信心もひとつ ぎりぎりのところ、いわゆるぎりぎりのもの、一口でいゝから、それを皆さん発表して下さいと、
仲々、そのぎりぎりのものと云うと、皆さん良いものが出ますねえ、只、話を十分とか十五分せんならんといったような、もう枝葉が無い、もうぎりぎり きっすいのもの
それでまず久富先生から、お願いしますとゆう訳で、お願いしました。先生、云われるのに、最近自分の信心が、マンネリになっておる事を痛感致しますと、これはいかんぞとゆう事に、気が付かせて頂きまして、最近お届けがあったのですけれども、久富先生にとっては、一番難しい、至難と思われる程しの修行に今、取り組んでおられます。
他の者には楽な事でしょうけれども、久富先生にとっては難しい事、それがあるのです、だから同じじゃいかんです、修行も、やっぱ修行するからにはね、ちった難しか修行でなからにゃつまらん、そこんところへ先生が取り組んでおられます、
それは、自分の周辺にですねえ、どうも花で云うなら、ジワ―ッとなってきたと思うのです、どうも勢いがなくなってきたとゆうのです、そこに気付かせてもらったのは、自分の信心がマンネリになっておる事に、気が付かせて頂いてです、その、ジワ―ッとなっておる草の根を、叩いてみよう、焼いてみようとゆう気になったのです。 お花なんかする人は分かるでしょうが、少しジワ―ッとなったつでん、焼いたり、叩いたりしてから水に付けると、水を上げましょう、いわゆる自分自身で、自分の心を叩いておられる訳なんです、いわゆる自分の周囲の、ジワ―ッとなっとるとを、自分の鏡と、それを信じておられるからです。
これは家内じゃないぞ、子供じゃないぞ、自分の周辺に、これは自分の信心がどうも、マンネリになっておる証拠だとして、本気でこの修行に、取り組まれた訳ですねえ。
そのお届けがありました時にね、私は、その日下がってから、お食事をさせてもらう時、家内に申しました「今日ね、久富先生が、こげな修行に取り組むと云うて、本当に先生としては大変な事だろうと思う、これはだから俺達もね、やっぱ伴奏でもさせてもらう位の修行は、させてもらわにゃ相済まんぞ」と云うて、家内に話しよりました。
そしたらね、神様からね、「久富一郎が、お前の修行の伴奏をするぞ」と仰った、私の方が伴奏するのじゃない。
最近、私が言っておるでしょう、合楽の願いとゆうものがです、世界中のすみずみに迄、合楽の祈りとゆうものは、持ってけれる、ひとつの普遍性を持っておるとゆう事。
今、私が祈っておるとゆう事はです、どこの誰だつて、聞く気になれば、なる程そうですねと聞いてもらえる程に、立派な筋道の立った事なのだ、その事が今云う私が、世界の市場に私のこの和賀心を、出したいと云うのがそれなんです。
そうゆう大変な大きな願いを、こゝの中心であるところの私が、持っておるからです、その事が、一分一厘でも、成就に近づかせて頂く為に神様は、久富先生にひとつの思いを起させて、私の修行の伴奏を、して下さろうとしておる働きなのです。
いわゆる神の理にピッタリ合っておる、もう久富一郎一人の修行ではない、私の大きな祈り大きな願いの事の為の、もう修行と、神様は受けて下さってあるのです。
そうゆうような発表を、こうゆう長たらしい話でなく、ひと口でその事を話しておられます、そのすぐ横に永瀬さんがおられましたから、永瀬さんに求めましたら、永瀬さんが開口一番、こうゆう事を云われました
私は、朝やすませて頂いておっても、四時の時間になると、親先生がもう、御祈念の座に出てござる、と思うたら、もうじっとして布団の中には、寝てはおられません、と云われました。
だから、もう四時を持つと同時に起させて頂いて、家内と二人で御神前のお掃除をする、家内は家の掃除をする、それから、こちらへ参らせて頂きますと、丁度親先生の御祈念の半ばに、こちらに着かせて頂くとゆうのである。
私は、それを聞かせて頂き乍ら、「信心ちゃ永瀬さん、そればいねえ」と申しました。 親先生が、もう御祈念の座についてござると思うたら、もうじっとして寝てはおられんとゆう、その思いなのです。 もうこの辺はね、合理的と云うのでなくて、もう、超合理的な事なのです、神の理にピッタリ合ってる訳なのです。
親鸞上人と美代吉との、話の中にもありましょうが、「もうそれだけの事が、信心が分かっておるならば、こんなに毎日毎日参って来んでもよいぞ」と上人様が仰った、ところが美代吉さん答えて曰くにです、「それでも毎日毎日上人様に、このようなお御苦労をかけておる事を、思うたら、家にじっとしてはおられません」とゆう事を、上人様に答えておる。
これが信心の全てだと、私はいつも思います。
自分がおかげ頂かんならんけん、朝参りしよると とゆう事とは駄々目が違う、そんならそれは、真似ようとして真似られる事ではない、心の問題だから。
どんなに信心が巧者になって、分かって、それ程しの事が分かっておるなら、もうそんなに、毎日日参り、夜参りせんでもよいぞとゆうところなのです。
だから、それで、あゝそうですかと、云う人もあるかもしれませんけれども、美代吉さんの場合、そこが違うておった、永瀬さんのそれなんです。
四時になったら、もう親先生が御神前に出てござると思うたら、布団の中にじっとしちゃおられんと云う、それなのです。
その時にね、私の前にある ガラスコップがありましたが、それにね、「チ―ンとゆうような、それこそ、いわゆる おいさみなんですねえ、皆んなが分かる程のおいさみでした。
いわゆる神様の心に、ピタ―ッと合うた訳です、あの、おいさみとゆうのはね、神の心にピタッとあった時です、いわゆる合理、理が合った時です、永瀬さんそれじゃんねと、云うた事です。
しかし ほらこれを見たっちゃ、神様の心に添わなければいけん事が分かるねと、云うて、次々、他の方々のお話を聞かせて頂いたんですけれども、
私は合理的と云うのはね、信心で云う合理的と云うのは、そうゆうもんだと思うです、自分の周囲、周辺の全てを自分の鏡と見る、これは、信心が段々大きくなってくれば、大きくなってくる程、言わば世界中そのものが、自分の鏡に、見えてくるようになるでしょうねえ。
これは、その人の信心の実感ですからねえ、例えば、こゝをたくさんの自動車が通ります、もうそれこそスピ―ドで、キ―ンといった音が致しますね、思わず知らず「金光さま―」と、私はこゝで祈らにゃおられません。
ですから今度は、救急車なんかがですね、けたゝましい音を出して、こゝを走っておりますと、もう、心の底から詫びます、「私の信心が足りませんでした…」とゆう訳なんです。
ですからね、そんなら、真似ならすぐ誰でも出来ますけれどもねそれがやはり、実感にならなければ駄目なのですから、だから私の鏡は、皆さんの鏡より、ちった大きいとゆう事になるのです。
だから私は、大きいおかげを、云うなら頂いとる訳なんです。
ですから信心が、一歩一歩前進するとか、進むとかゆう事はです、云うならば、自分の鏡とゆうものが、段々大きな鏡に、なっていく事だと思います。
ですから、まず自分自身の心の中からですけれども、自分の一番関係のある、身近なところから、云うなら自分の家庭から、家庭を治めるとゆう事はです、云うて聞かせて、して見せて 等とゆう事で治めたのでは、もうそれっきり、そこまでなんだ、云うて聞かせなかったら、又同じ事、ず―っと云うておらにゃならん、それで、いつも ほらほら、そらそらと、云うとらにゃならん。
それこそ、自分自身が、シですね、お恵みを受けて、ム口にならせてもらう、いわゆるそれ程しに、神を信ずる力とゆうものが、出来てくる時にです、もうそこには神様のおかげで治るとゆう、おかげになってくると思うのです。
そこには、自分も人も一緒に、助かっていくとゆう道が、開けてくるのです。 そうゆう云うなら、合理的な信心、云うならそれを私は、いわゆる、超合理的とも申します。
云うて聞かせた方が、して見せた方が、合理的のようですけれども、それは只、人間の決めた合理的であって、神様の心に適う、云うならば、チ―ンと おいさみでも頂ける程しのです、合い方ではない、合理的とゆうのはどこ迄も、神様の心にピタッと合うたようないき方、それには、こゝに難儀な問題がある、その難儀な問題をどうして、と云わずに、自分の心の中から、その難儀が生れておるのだとゆう頂き方が、一番間違いのない事なのですから、その間違いのない事に、取り組ませてもらう。
そこに自分の改まりがある、そこにお恵みを受ける事、
自然はいつも、私共にそれを求めておられる、そこで、そんなら私共がね、人にどん云う段じゃない、自分自身が改まるより他にないと、無口で治めてゆけるようになると、ゆう訳なのです。
八十八節を頂くたびに、思う事は、いわゆる八十八、広がった上にも広がっていく、これは誰しも、願わん者はない程しに、願っておる事なのです。
それを頂かせて頂く為には、まず信心が、容易いものじゃがと、教祖は仰っておられるが、私は、信心は難しいものじゃがと、難しいものじゃが、自分で楽なほうへ楽なほうへとろうとする、ひと通りの事が分かったら、もうそれで、事済んだように思うておる。
云うならば、信心の神様の心と、私の心がピタッと調子が合う、調子が合う時に、おいこみがある、とゆうように、調子が合うた時に、良い音色が出る、その音色が出るところ迄を 難しいものであり、音色が出るようになったら、後はもう楽しゅうて、楽しゅうて有難うて、有難うてとゆう、おかげしか出てこないところまで、
お互いの信心を、極めてゆきたいと思うですね。
どうぞ。